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M十段の名で知られるMに師事し、Kが創設した東京のK館に頻繁に通った。
オールKの柔道大会では、あまりの強さに相手がいなかったというエピソードが残るほど、メキメキ腕を上げた。
一九五0年三月、Kを退職した。
その直後に、指を落とす事件が起きた。
Sには左手の小指がない。
第二関節から先が切断されたままになっていることが、フィクサーSに凄味を与えた。
「若いころは、暴力団の関係者だった。
抗争の手打ちで指をつめた」。
こう、まことしやかに輔かれていた。
SにインタビューしたIは、この件についてS本人は口をつぐむが、関係者の話としてある有名な事業家をめぐるトラブルがあって、それを防ぐために指を落としたらしい。
相手は暴力団関係者だったと書く。
後年、大物フィクサーになる片鱗をうかがわせるエピソードだ。
柔道を通じて政財界に人脈が形成されていく。
Kを退職したSは、柔道で知遇を得た茨城県知事のTの推薦で、横浜に司令部を置くA第八軍軍政部の部隊に入った。
朝鮮戦争の激戦地に武器や弾薬を補給するスーパーバイザーの仕事だ。
僕が第八軍で働いたことを知っているのは、女房だけだね。
あの当時が僕の人生で、一番波乱に富んだ時期だった。
第八軍から戻ったSは、ここでも柔道で培った人脈を生かして、畳屋の商売を始めた。
北海道や九州から畳表を仕入れて、東京都下の柔道場に納める仕事である。
どこの道場に営業に行っても、K館の猛者だったSの顔を知らないものはいない。
注文が殺到し、練馬に構えた庖は、常時、五、六人の職人を抱えるほど大繁盛した。
しかし、畳屋という商売では物足りなくなったSは、約一年半で廃業。
転身を図ることになる。
バイタリティーに富むこうしたSの姿に目をとめたのが、旧・K財閥の三代目当主、Kである。
K財閥は戦前、K銀行を中核企業として、保険、貿易、鉱業などに進出した金融財閥である。
旧・K財閥の流れを汲む企業には、K銀行、D銀行(現・MTU銀行)、J銀行、A銀行、T銀行、TN銀行、T銀行(現・MS銀行)、N信託銀行(現・MU信託銀行)、N火災(現・N損害保険HNKSJホールデイングスの傘下)、D生命(現・M生命保険)などがある。
財閥本社の定徳会は戦後の財閥解体で解散させられた。
そこで、不動産会社・Kを設立し、旧・K財閥が保有していた不動産の管理にあたった。
旧・K財閥の始祖・Kは水戸藩の御用商人である。
畳屋でくすぶっていたころ、Sは同郷(同じ茨城県出身)という地縁を頼りに、三代目当主のKに面会を申し込み、気に入られた。
神田のZ相互銀行(現・TN銀行)の別館にあった先輩の事務所に、総務部長が何度も来て、「どうしてもうちに来てくれ。
会長が呼んでいるから」と誘われました。
たび重なるMの説得に、当初、入社を渋っていたSは、一九五三年にKの総務部長に就任した。
Kは、東京・日本橋、六本木、新宿などの一等地のほか水戸、仙台、名古屋、大阪などに膨大な不動産を所有していた。
だが、終戦から数年の問、不法占拠者に悩まされ続けていた。
立ち退きに応じない暴力団や、家賃の値上げに応じようとしないゴロツキ連中に手を焼いていたのだ。
Mは、こうしたトラブル処理の一切合切をSに任せた。
トラブル処理のために、Sはどこへでも自分で乗り込んでいって、たちどころに問題を解決した。
Hすぐやる総務部長。
を実践したSに対するMの信任は絶大なものとなった。
当時のことを聞かれたSは、とにかく問題を処理すれば次が出てきて、そんなことの繰り返しですよ。
ヤクザ者とのトラブルなんでしょっちゅう。
でも、こちらが礼を尽くして事にあたれば、向こうも人間、わかってくれるもんですよ。
そういう人たちとも親しくなければ、完全な管理はできないんですと答えている。
Kの遺言で、SがKの「終身社長」に就任したのは一九七三年四月である。
すでに入社して二0年が経過していた。
Sは、Mの長男であるKが社長の椅子を継ぐべきだと思っていたが、「(Sに)一族が必死になって社長就任をお願いした」という。
当初、不動産管理会社の社長にすぎなかったSは、さまざまなトラブルを解決した。
ダーティーなビジネスの処理を引き受けているうちに、ウラとオモテの二つの世界に幅広い人脈を築きあげた。
Sは、いわば、オモテ世界とウラ世界の接点に身を置き、その卓越したトラブル処理の手腕によって、絶大な影響力を行使してきた特異な人物である。
それまで世間では無名だったSが、一般に知られるようになったのは、S銀行によるH相銀の吸収合併劇だった。
SがK一族の側に立ってH相銀の内紛に介入してきたのである。
Sの登場に、四人組の代表、Iは焦った。
Iは、K家の影響力を一掃した後、米大手銀行のSに身売りする腹づもりだった。
Sに渡ったK一族の株式を取り返さない限り、H相銀がS銀行に呑み込まれるのは明らかだった。
Iは、このまま行けば、自分も追放される、と直感した。
SからH相銀株を取り戻すには、どうしたらよいのか。
ここから、SとIの虚々実々の駆け引きが繰り広げられることになる。
H相銀株がSの手に渡り、Kファミリー企業からは借金が全額返済されている。
この事実に直面したH相銀の経営陣は次第に焦燥の色を濃くしていった。
動揺を見透かしたかのような絶妙のタイミングで登場してきたのが、大蔵省出入りの固商という触れ込みの、Y画廊のMである。
Mは、Iら自主再建派に対して、「金蒔絵時代行列扉風」をH相銀が買い、裏ガネをつくれば、Sから株式を買い戻せるという話を持ち込んできた。
この扉風は、大正時代に旧財閥のM総本家が京都の工芸底「象彦」につくらせた四枚一組のもの。
横三・六メートル、高さ一・八メートルで、漆の上に金、銀粉などを使い、平安時代の貴族の行列の模様が描かれた大作である。
Mは愛媛県出身。
一九四三年に応召し、四六年に復員。
終戦間もなく、画材屋を始め、大蔵省内の日曜画家のサークルに絵の具やカンバスを納めたことで、大蔵省に人脈ができた。
MをH相銀首脳に紹介したのは、大蔵省から同行に天下っていた会長のTである。
Tも、この日曜画家のサークルでMと知り合い、かれこれ三0年以上の付き合いになっていた。
Tは、T経済学部を卒業して、大蔵省に入省。
銀行局総務課長、大臣官房審議官(銀行局担当)を歴任。
防衛事務次官、N銀理事を経て退官。
一九八三年一二月にH相銀の会長に天下っていた。
Iら四人組は、最初は疑心暗鬼だった。
だが、Sと接触するうちに、MとSとがグルであると確信した。
Sが、時の大蔵大臣・Tとも懇意であることがわかり、この金扉風を購入することを決断する。
「将を射んと欲すればまず馬を射よ」である。
実際には、どう高く見積もっても二、三億円の扉風を四0億円で買った。
差額は、大物政治家へ流す裏ガネという話をIは信じたのである。
結局、Iは株式を買い戻すことができず、ここで、やっと騙されたことに気づくのである。
やがて、カネの分配先を記したMメモの害在と、Tの分身といわれた秘書のAがこの売買に関与していたことが明らかになる。
そして、政界を揺るがすTスキャンダルへと発展していくのだ。
一九九三年二月二六日。
金扉風購入をめぐる民事訴訟の口頭弁論に、証人として出廷したIは、こう証言した。
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